ペンタクルの銃

感じたことをたまに書くところ

流れる情報を見て思ったこと

個人の幸せを求めるというのは、所属する集団の中で個人としての幸せを求めるということだよね。
集団が幸せじゃないと結局みんな不幸になると思うのだけど、公共の利益ってそういうことの気もするんだけど。

個人は集団というジクソーパズルを構成するピースみたいなもので、その一つが自分がこのパズルの中心だといくら言っても、やっぱりピースであることには変わりはない。

自分だけが幸せになれるというのは幻想と同じなのかもね。

それでも人は自分だけは幸せになりたいと願う人が多いのだから、そのあたりは面白い気もするな。

 

 

びたー

 理由も意味もわからないのに、苦しいのはけっこう辛いねえ。
 こういう感覚は10代の頃によく感じ……る余裕もなかったなあ。

 よく若い時が良かったという人の気持ち、ほとんど分からない。
 自分が何を感じて考えていたのか、思い出せない。
 
 関係ないけど雨上がりって綺麗だと思う時が多いな。
 
 昔、雨が上がった後の匂いが好きといってた子がいて、記憶に残ってるせいかもね。
 
 アスファルトに覆われた世界はどこか錆びた匂いがするけれど土に降ると草の匂いがするような気がするから。

少し幸せだな。

エモる

 あらゆる現象は発生した時点で情報を感受した物の感情の力を受ける。思考はその経過・経路を納得のできるよう説明したもの。
 と、する。
 
 このことから、全ての出来事は感受する人間の数だけ存在するという事実が生まれる。
 そのため感情の共通化という作業が生き物には必要になった。
 アタリマエのことを当たり前に書いただけだな。
 ただこの世界で起きる出来事は誰かの感情、好き嫌いでほとんど決まってるはず。
 
 それじゃ感情が何なのかだけど、きっと生命を制御するためのシステムだよね。
 そうなるとシステム化した何かが理性側になるので矛盾するけど。
 けれど制御するためのシステムが自然発生したというのは少し無理がある。
 だからその問に体する答えを創るために人は神を創った
 絶対的が何かがないと少し考えただけで自我が拡散しちゃうから。
 一度意識してしまうと個人・個体ってものすごく不安定だよ。
 確認できるのが自分の感覚・肉体しかないから。
 
 んで、命が自由になれないのは、プラスとマイナスに縛られてるからだよね。
 プラスというのは生きること増やすこと、マイナスは死ぬこと減らすことかな。
 この二つは同じでありながら反対のもの、今の所プラスが正しい。
 プラスのほうが心地よいからだろうね。
 でもプラスだけならマイナスと同じでもある。
 このあたりが難しいところだなあ。
 幸せという状態を維持すると不幸になる。
 逆もまた同じ。

 

 感情は何のためにあるのだろうね。
 ない世界は意外と楽な気もするのだけど、それだと成長がないか。
 それにしても上手い仕組みを創ったものだねえ。
 感心する。
 

 例えば、愛は真実ではないとしてみる。
 真実ではなくて本物では無いでもいい。
 これは今の世の中にある愛という言葉は、何かを犠牲にして何かを得る事を飾ったものでしかない。
 ということにする。
 それだって尊いのは確かだろうけれど、真実ではない。
 じゃあ真実が何なの? になるけれど自分では分からない。
 ただ、今ある愛という形が疲弊してきてるのはみんなどこかで分かってる気もする。
 
 人間というか生物の根本にあるのは、きっと一に戻ることのはず。
 一というのが何なのかはよく分からないけれど、男女・雌雄という性別があるのは
 元々はそのための物だったのではないかな。

 と脱線した。
 
 色々書いたけれど、自分の中では世の中で言う愛は真実にならなかった。のほうが正しいかな。
 
 だからこそ綺麗に見えるのも事実。
 そういう愛はこのまま手に入らないのかもしれない、きっとそれでいいのだろうけれど、寂しい気もするな。
 
 

窓枠

 今まで、自分がずっと欲しかったのは人という枠そのものから外れることだったような気はするな。
 枠は現実という形そのものだから、現実にいることはいるんだけど半分いない側の人ではあるけど。
 

人の枠を超えるというのは能力的に人を超えるというより、能力そのものに固執しないことに近い気はする 。
 無理矢理競うことで優劣を決めることより、もっと違う方法で優劣を決めることもできると思うな。
 競争しなければ発展しない、そうみんなが信じているうちは多分無理だろうね。
 その価値観こそか現実という枠そのものだから。

 

 昔は何かを成さないと何者にも成れない。
 そう感じていたけれど。
 何も成さなくてもここに存在してるだけで何かを成している。
 に変化した感じ。
 最低限、現実と折り合いをつけて自分なりの幸せを感じるために生きる。
 そのあたりでいいかもね。
 
  

現と幻

現実的と呼ばれる人たちは現実を仮定して、その現象があると感じている人たち。
 あるかないかというとある
 なぜそれがあるかは自分もよくわからないので説明はできないのだけど。
 普遍的な感覚としてこの世界に適合している。
 あたりでもいいかなあ、在るから在る。無いといってもそれは在る。
 
 そういう物理法則の根源にあるのは、仮定を確定しようとする意識そのものかもしれない。
 ?意識とか法則ってなに? そのあたりに興味がある人達が今ここにある現実の外にある現実を見たい人たち。
 
 例えば、我々は何者かの観ている夢でしか無い。古典的だけど否定は誰にもできない。
 
 この問に対して

 知性で解決をしようするのが数学や物理学。
 感性で解決しようとするのが芸術。 
 理性で解決しようとしたのが哲学。
 信仰で解決しようとしたのが神学。
 
 あたりかな、突き詰めると文系、理系、関係なく目指すものは同じになるはず。
 それが真理というやつなのだろうけれど、その答えに辿り着く前に人類が滅亡しちゃうかもね。

普遍的

どれだけ文明が進んで生活の形が変化しても根底にあるものは変わらない。今、自分たちが唯一無二だと感じていることのほとんどは大昔からすでにある。それに気づいてしまうと価値観の相違はどうでもよい気がする。

人は感情という基幹によって動かされる有機的なシステムのようなもの、知性はその仕組みを補佐するためにある。
機械が本当の意味で人に近づけないのは構造が真逆だからかもね。
たぶん創られたという意味では人も機械もたいして変わらない、創造した者が何なのかは知ることができるだけ機械のほうが自分を理解しやすい気がするけれど。

ま、意味のない問いでしかないか。