夏と星

感じたことをたまに書くところ

考えること

 はたしてNintendo Switchを今買おうとすることは無意味なのか?
 ……それは関係ない。

 

「はたして考えることは無意味なのか?」

 
 現実世界で存在している意味にはフレームがある。
 フレームとは従うことによって存在してる法則・ルールのようなもの。

 けれどそのフレームの意味について考えるとなぜかフレームの存在・意味を失ってしまう。
 
 前回までの話をまとめるとそんな感じ。
 補足だけど重要なことをもう一個。 
 
 もし考える事がフレーム、ルールから外れる事なら現実というルールから外れることもできるはず。
  
 これはできること、できないことがある。
  
 この世界で定められたルール・フレームに従わない、そのために自らの意思で新たなルール・フレームを創ることはできる。

 けれど根源的なフレーム。
 簡単にいうと生物として与えられたフレームはこの世界に居る限り超越することはできない。
 なぜか? これは全ての根幹のフレームとして定められているから。このことからフレームには次元・段階・階層があるということがなんとなく分かる。


 自分は哲学を勉強したことはないので、哲学が何なのかよくわからないのだけど。
 哲学の基本は定まったフレームと確定していないフレームの間に立つことなのではないかな。
 科学的にいうなら量子の揺らぎを観測するでもいいかもしれない。
 存在が確定するためには存在を定める何かが必要になるから定める法則が必ず存在する。
 その法則を発見し意味を規定することが科学だと思う。
 結果、法則が生まれた場合、その意味・存在は過去となる。
 過去というよりフレームが固定化して存在が生まれるといったほうがいいかもしれない。

 だからこの世界に存在するあらゆるものは意味が生まれた時点で過去となっている。
 当たり前じゃない? 当たり前のことを話しているだけだと思う。
 でもなぜ当たり前なのかはフレームとして存在しルールに従っているからではないだろうか。

 

 ここまでの話と考える事? それと何の関係があるの?
 
 結論から言うと過去では無い状態になる。
 それが考えることだったりする。

 

 一応、例のようなものを……。

 これからどこかに旅行しにいくとする。
 目的地が決まり、その場所までのルートはいくつかあってそれぞれ利点と欠点がある。
 だからどのルートを取るのか考える。
 そして考えた結果、行くルートを決めて目的地に向かい目的地についた。
 

 上の行動は
 
 「目的地につくためにどの手段をとるか決め、出発して到着した」
 
 になる。その中で自分の意志で完全に自由なのは目的地にどの方法で行くかを考えることだけだったりする。
 なぜなら他の要素はすでに存在しているから。
 場所・方法を達成する手段、その存在は最初からある。 
 これらは自分の意思で変えることはできない。
 そのため全てが過去にある。
 
 方法が気に入らないし旅行自体面倒だから、旅行にいかないという選択もあるのでは? 
 その場合、意味・存在自体が失われるか変化する。
 
 だったら存在していない方法でいくこともできるんじゃない?
 存在していない方法はこの世界に実態がないので使うことができない。
 例えば、謎の方法トリップで目的地にいくと決めたする。
 トリップというフレームは確かにその瞬間生まれるので意味を持つ、けれどその実態は定まっていない。
 なぜか? それは今考えた結果生まれたフレームだから。
 このことから、この世界にフレームを固定化するためには条件が必要ということになる。そしてトリップは考えた結果生まれた意味なので、考えることは過去から外れる作業という確認にもなる。
 
 何も考えないで適当に・ランダムで決めることもあるのではない?
 その場合、既存のフレームを元に自動思考で選択、判断して従っている。 
 オートパイロット状態のようなものかな。
 サイコロで決める? ランダムは乱数というフレームの下にある。
 他に無意識という呼び方もしてよいのだけど、意識が何なのかを決めないと駄目なのとりあえずパス。
 一定の条件に沿った何かを選び、判断に自分の思考を交えないで決定する時はだいたい既存のフレーム・ルールに従っている。 
 そしてそのフレームが何なのかは環境に依存しているので個体ごとに違う。 

 
 書いてる本人も分かるようで分からない、そのうち分かる気もする。考えた結果、浮かんだことを書いているだけなのだ。

 
 感覚的にいうなら、今、感じていること全ては過去に存在してる。
 そして何かを考えて選ぼうとしている時は現在になっている。
 じゃあ未来はどこにあるの? というか未来って何なの?
 
 未来は……って長くなったのでまた今度。 
 

意味

 何かを行う時、意味があるかないかを求めると意味を失うことになる。 
 意味を存在といいかえてもいい、けれど存在は意味を固定した時、存在として生まれる。
 ? 矛盾してる。確かに同じ感じなのだけど違う。
 この同じだけど違う。
 これを分かるのに自分はすごく苦労した。
 
  
 社会のルールで当然だとされていることは確かに存在している。
 けれど、そのルールに意味があるかどうかを考えた瞬間、存在は意味を失う。
 
 
 例えば。
 生まれたものは必ず死ぬ。これは命のルール。
 そのルールの意味を求めるため、自分がなぜ生まれ死ぬのか理由を考える。
 この時、生死のルールは意味を失ってしまう。
 だから生死について思考すると意味・なぜ生きているのかを失うことになる。
 よくわからない? 書いててもよくわからない。
   
 では、人は幸せという状態をどのような形であろうと欲している。
 根底にあるのがなんであろうとこれは正の法則となっている。
 この反対は負として現れる、ただ負は正を求めることに対する反動として存在している。
 中には幸せになるために幸せを求めるな? という人たちもいるだと思うけれど、前提として幸せになるという目的があるので本質は同じ。
 
 次。
 幸せが何なのか、どうすれば幸せになるのか思考すると幸せを失うことになる。
 ? 幸せになるために幸せを求めない? と何が違うの?
 幸せになるために幸せを求めない。
 これは幸せになるというルールの下で幸せになろうとした時に生まれた意味。
 幸せが何なのか、どうすれば幸せなのかを求める。
 これは幸せが何なのかを考えている。
 そして幸せが何なのかを考えた瞬間、幸せはその存在・意味を失う。

 
 うーん、まだややこしい気もする。

 信号が赤になったら止まると決まっている。
 けれど、なぜ信号が赤になったら止まらないと駄目なのかを考えた時、赤信号で止まらなくても良い気がしてくる。
 あたりでどうだろう。
 
 
 意味を定めてあるものには存在フレームがあって、そのフレームに従うことで存在・意味が生まれている。
 けれどそのフレームがなぜあるのか思考した時、フレームが揺らいで存在・意味を失う。
 だから何かについて思考するというのは、存在しているフレームから外れるための作業ともいえる。
 
 
 それなら考えることは無駄じゃないの?
 その通り、もし存在フレームに従って生きたいのなら、思考することは時に有害にすらなる。
 それではなぜ人は思考するのか? 思考することで意味を失うのなら、考える事は無意味なのか?
 長くなったのでこれについてはまた今度。
 
 

知識

 

知識は何かを知っているだけでしかないと最近思う。
昔は知らないより良いはずだ。そう考えていた。
今は経験していない、出来ないことは無理に知らないほうが良いと感じている。
余計な知識は贅肉になることが多く、行動を否定する理由になりやすいから。

大事なのは知識を行動にフィードバックさせること。
頭の中で確からしい事を選んで話をしたとしても、自分自身で行動して確認したことを超える説得力は生まれない。

人が一人で手に入れることのできる真実? 真の知識はすごく少ない。
個人として素晴らしい能力があっても、孤高を好む人が自己完結で終わりやすいのはそのせいかもしれない。


知識をフィードバックした時に生まれた真実。
それをアウトプットしたものが本来の意味で言う情報だと思う。
流れているほとんどの情報は経験から来る固有の知識ではなく、コピーを繰り返した結果を示しているだけでしかない。
そしてコピーをする過程で変質している事も多い、これは意図的に操作を加えているからだろう。

 

流れる情報の量が増えれば増えるほど陳腐化していくのは、固有の知識が希釈され元々の何かとはかけ離れていくせいかもしれない。
例え一字一句完璧にコピーしたとしても、オリジナルが提示したものとは違うものになる。
不思議なのだけど、オリジナル・ファーストとセカンドは何かが違う。

 

その何かが自分は分からないし、きっと分かってもどうにもならない気もする。